奥村組土木興業株式会社

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プロジェクトストーリー

03平成28年熊本地震
被災地復旧応援隊

2度の大地震で寸断された
熊本のガス復旧活動を陣頭指揮。
日常生活を取り戻すことに貢献。

市民生活を守るために立ち向かった
不屈の魂プロジェクト

【平成28年熊本地震 被災地復旧応援隊】

災害大国である日本では、大地震や台風などのたびにライフラインが寸断される。被災された方々に平穏な生活を取り戻していただくため、当社では「応援隊」を派遣し復旧に務めている。東日本大震災の時もいち早く、被災地に駆けつけたのだった。平成28年(2016年)4月、熊本県を最大震度7の大地震が襲い、約10万戸のガス供給が停止した。LG本部では大阪ガス㈱の要請を受け、いまだ余震が続くなか、当社18名、協力会社58名からなる「復旧応援隊」を派遣。連日続く雨、そして宿舎からはるかに遠い被災地へ、毎日早朝からの出動、など厳しい状況の中で復旧作業に取り組み、ガス供給の復旧に努めた。

松下 義秋
LG本部 導管部 大阪建設事務所(当時)
現在:LG本部 導管部次長 兼 大阪建設事務所 所長
松下 義秋
1991年入社、機械工学科卒業。入社以来、導管工事ひと筋のプロフェッショナル。災害復旧派遣の経験もあり。私生活では、地元の祭り「ふとん太鼓」に参加する、パワフルなリーダー。

熊本地震被災地のガス復旧応援を担当、
余震が続く中、復旧工事を完遂。

平成28年熊本地震 被災地復旧応援隊1

平成28年(2016年)4月14日21時26分、熊本県をマグニチュード6.5の地震が襲った。益城町では震度7を観測。ニュースでは崩れ落ちた熊本城の映像が流れ、ライフラインの停止など県民の生活を支えるインフラに甚大な被害が生じ、ガス供給停止も10万戸に及び日本中に大きな衝撃を与えた。

「これは、出動しなくてはならないか…」

奥村組土木興業でガス導管工事ひと筋30年の松下義秋は、被災した現地を思いやり、ガス復旧のために自分たちに応援要請が来ると予想した。

「熊本に一番近いのは大阪の本社だから、応援要請が来たら自分たちが行くことになるよと社内で話していて、心の準備はできていました」

2日後の16日1時25分には前回を上回るマグニチュード7.3、震度7の地震が再び観測された。ちょうどその日、大阪ガスから奥村組土木興業に、正式に復旧応援要請が出された。

「今までも災害復旧の作業を行った経験がありますし、備蓄品さえ揃っていれば、すぐにでも出動できる体制になっていました。16日は土曜日でしたがすぐに準備に取りかかり、18日の月曜日には第一陣として内管工事の部隊が、九州に向けて出発しました。人選は協力会社も含め、自分が行いました。みんなで名神高速の大津サービスエリアに集合して、決起大会を行って現地に出発したのです」

余震による二次災害も懸念されるなか、松下は奥村組土木興業や協力会社から成る約50名の派遣隊隊長として、現地に赴いた。

自分は何ができるかを考えた結果、
隊員たちの衣服を洗濯することに。

平成28年熊本地震 被災地復旧応援隊2

派遣隊に基地として提供されたのは、大分県のとある施設。熊本の隣県ではあるが、部隊が担当する現地までは、片道で3時間もかかる。

「宿泊施設や食事は非常に良かったのですが、いかんせん、遠い。みんな早朝の3時半、4時に起きて、すぐに出発です。朝食は行きのバスの中。そして復旧作業を行って、宿舎に帰ってくるのは夜の8時、9時。みんな疲労困憊の状態でした」

しかもこの時、連日雨が続いていたという。ガス管の中に水が入るとガスが出なくなるため、雨中での作業は困難を極めそれが隊員を一層、疲弊させた。このような状況を受け、松下は自分に何ができるかを考えた。

「私は隊長として何をするかではなく、何ができるかを考えました。隊員たちにいろいろ話を聞くと、宿舎への帰りが夜遅くになり、さらに雨の日が続いたことで『洗濯ができない』という不満の声が上がりました。そこで毎朝、隊員たちを見送った後、私は彼らの衣服を洗濯することにしたのです」

洗濯とはいうものの、決して簡単な作業ではなかった。松下はまず、各自の洗濯物が混ざってしまわないよう、50名分の洗濯ネットを購入。そして隊員が出動してから、ひたすら洗濯機を回し続けた。その時間は朝の4時から8時までかかったそうだ。

「8時になったら、洗濯された衣服を持って現場を回り、一人ひとり顔を見ながら洗濯物を渡していく、そうやってコミュニケーションをとっていきました。それが自分にできることでした。まぁ『隊長』として、偉そうにすることもできたでしょうが(笑)」

見送る子どもの手に、小さな紙が。
「来てくれてありがとう」の文字に涙。

平成28年熊本地震 被災地復旧応援隊3
平成28年熊本地震 被災地復旧応援隊4

復旧作業は、予想を超えて困難なものとなっていた。

「ガス管は道路に埋めています。通常は、どこに埋めたか分かるようになっています。しかし道路が寸断されていて、どこに埋めてあるのか、どこが折れているのかを確かめながらの作業となります。網の目のようにめぐらされているガス管をテストして、合格だったら繋いでいくという作業の繰り返しです。それを朝から夕方までずっと続けるわけです」

このような作業を12日間続け、派遣隊は5月1日、ようやく大阪に戻ることになった。

「ガスは重要なインフラですので、出るようになったらみんなとても喜んでくださいます。ある時、親御さんがお礼を言ってくださっている時、お子さんが小さい紙のようなものを出しました。そこには『大阪から来てくれて、ありがとう』みたいなことが書かれていました。それを見たらやっぱり、背中を向けて泣きそうになりましたね」

困難な作業の疲れも飛ばすほどの、喜びと誇りを感じた瞬間だったという。

大阪残留部隊がいてこその、派遣隊。
真っ先に、残った社員に感謝の言葉。

平成28年熊本地震 被災地復旧応援隊5

松下が帰阪後、真っ先に行ったことがあった。共に派遣隊として作業した隊員ではなく、意外にも大阪に残った社員へ、ねぎらいの言葉をかけたのだった。

「派遣隊は、確かに大変でしたよ。現場は遠いし、休みはないし。でも作業としては、我々の上にいる大阪ガスさんの指示通りに動いていればいいのですから。しかも『光が当たる』というか、派遣隊は誰からもねぎらってもらえるじゃないですか。現地では感謝もされますし」

松下の視線の先には、派遣隊を陰になって支えていた、大阪に残った社員たちの姿があった。

「『派遣隊ってすごいね』と言ってもらえるのも、残っていた者たちのおかげです。でも、陰で支えている者には光が当たりません。しかも派遣された者の分まで仕事をしなければならない。本当は、そちらの方が大変だったはずです。だから逆にねぎらっておきたかったのです」

陰で支えた社員のことまで忘れず、その想いをしっかりと伝える。松下はそれが「奥村組土木興業というブランドをつくる」ことだと考えている。

「ブランドって究極のところ、『人』に行き着くと思っています。良い仕事をしても、伝え方でプラスにもマイナスにもなります。また一流であればあるほど、社会や顧客からの評価も厳しくなってきます。奥村組土木興業として恥ずかしくない仕事、恥ずかしくない対応を心がけることが重要です。私はそういうことをお客様や仲間に教わってきました。そして次の世代にしっかりと継承していくことで、奥村組土木興業のブランドも高まっていくと思います」

松下はニッコリと微笑みながら、今回の取材をそう締めくくった。

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